第一章:「切り抜き」の操作

本章では、二人のワタナベエイジが行っている同一の操作を明らかにする。


1.1 分析の出発点——間接経路からの仮説

1.1.1 グラフ上の事実

思考グラフ上、治さんの「XをXじゃなくす」と司さんの「切り抜き」の間に直接の接続は存在しない。治さんはこの語を用いていないし、分析者もグラフ作成時点でこの接続を明示的に認識していなかった。

しかし、両者は「小さな転覆」を経由して繋がっている。

XをXじゃなくす ─[0.95]→ 小さな転覆 ─[0.90]→ 切り抜き
    (transform)      (small_subversion)     (cutting)

0.95と0.90——いずれも最高レベルの強度であり、かつ両方とも明示的エッジ(explicit)にあたる。間接的とはいえ、この経路は強固といえる。

1.1.2 直接接続がない理由

なぜ直接接続がないのか。

思考グラフは一次資料——治さんのノート、司さんのステートメント、展覧会記録など——に基づいて構築されている。両者が明示的に語っていない接続は、グラフ上に現れない。

治さんは「切り抜き」という言葉を使っていない。したがって、グラフ上で「XをXじゃなくす」から「切り抜き」への直接エッジは作成されなかった。しかし、これは接続が存在しないことを意味しない。本人が認識・言語化していなかった可能性がある。

では、なぜ直接接続が生じなかったのか。一つの理由として、対象の性質の違いが考えられる。司さんの「切り抜き」は、蝶や魚といった実在する具象物を対象とする。ハサミで切り取れるのは、図鑑に印刷された像——物理的な存在——にほかならない。一方、治さんの「XをXじゃなくす」が対象とするのは、錯視という現象にあたる。具象物と現象——この対象の差異が、両者の直接接続を妨げている可能性がある。

1.1.3 仮説の導入

本分析は、一つの仮説を立てる。

仮説:司さんの「切り抜き」は、治さんの「XをXじゃなくす」のX=蝶(具象物)への適用として解釈できる。

間接経路の強度がこの仮説を支持する。「XをXじゃなくす」と「切り抜き」は「小さな転覆」を経由して0.95 × 0.90で繋がっている。

さらに、「XをXじゃなくす」のXは任意の対象を許容する。治さん自身は錯視・動き・色・光を例に挙げたが、X=錯視(現象)だけでなく、X=蝶(具象物)にも適用できる。

以下、この仮説に基づき両者の操作を検討する。


1.2 司の切り抜き——ハサミと図鑑

1.2.1 「小さな転覆」という操作

司さんの方法は、「小さな転覆」と評されてきた。

「身近な事物に起こされた小さな転覆により、哲学、ファンタジー、故事などにも近づくような深遠かつユーモアに富んだ視点を生み出す」 — 大府市公式サイト「ワタナベエイジ展」プロフィール(2025)

「小さな」という形容詞に注目したい。大きな革命ではなく、身近な素材への静かな介入。しかしその介入は、深遠な問いを開く。

この「小さな転覆」は、30年以上にわたって一貫して実践されてきた。《名称の庭》(1992年〜継続中)、《蝶瞰図》(2009年)、《Merman》(2020年)——対象や形式は変わっても、操作の構造は変わっていない。

1.2.2 制作の記述

司さんの制作過程は、以下のように記述できる。

  1. 図鑑を入手する——蝶や鳥、魚などが収録された図鑑
  2. 像を切り抜く——ハサミで物理的に切り取る
  3. 配置する——インスタレーションとして空間に展開

一見すると、これは単純なコラージュ技法に見える。しかし、この操作には認識論的な意味が含まれている。

1.2.3 図鑑とは何か

図鑑を開くと、蝶のイラストや写真が並んでいる。しかしそれだけではない。各像には名前が付されている——「アゲハチョウ」「モンシロチョウ」。解説文が特徴や生態を記述し、ページ構成が分類学的階層を可視化する。

要素 機能
(イラスト・写真) 視覚的同定の手がかり
名前(学名・和名) 分類体系への位置づけ
解説文 特徴・生態の記述
配置(ページ構成) 分類学的階層の可視化

図鑑は、リンネ以来の分類学、博物学的収集、近代生物学の知の体系が物理的な形をとったものである。学名はラテン語で記され、科・属・種の階層が厳密に規定される。解説文は生態学的・形態学的な知識を凝縮している。

この科学体系の中で、蝶は名前によって固定される。蝶が図鑑に収録されているとき、それは「蝶一般」としてではなく、特定のカテゴリに属する存在として提示される。図鑑を開くことは、生物学という科学体系に参入し、その命名体系を受け入れることにほかならない。

1.2.4 切り抜きの意味

司さんが図鑑から蝶を切り抜くとき、何が起こるか。

蝶 ─[図鑑に収録]→ 「アゲハチョウ」という名前で固定
    ─[ハサミで切り抜き]→ 名前から切断
    ─[解放]→ 言語以後の存在として再出現

切り抜かれた蝶は、もはや「アゲハチョウ」ではない。それは名前を失い、分類体系から離脱し、ただの蝶——いや、蝶ですらない何か——として現れる。

2009年の越後妻有トリエンナーレの解説は、この操作を的確に捉えている:

「普通は外の蝶を採集して、図鑑に収録」なのに、それを逆にして、図鑑から蝶を解き放った作品です。」

「逆にする」——ここに司さんの操作の核心がある。

1.2.5 解放された存在

切り抜かれた蝶は、どこへ行くのか。

司さんはそれをインスタレーションとして空間に配置する。《蝶瞰図》(2009年、越後妻有トリエンナーレ)では、数百の蝶が美術館の天井から舞い降りる。《名称の庭》(1992年〜継続中)では、植物図鑑から切り抜かれた何千もの図版が針金で吊るされ、空間に「庭」を形成する。

このとき、観客は何を見るか。

これが「名前からの解放」にあたる。


1.3 治の切り抜き——言葉と分類体系

1.3.1 「XをXじゃなくす」という操作

治さんのノートには、次の記述がある。

「錯視を錯視じゃなくす。動くを動くじゃなくす。赤を赤じゃなくす。光を光らなくする。」 — 渡辺英治ノート

四つの具体例から、共通する変数構造として「XをXじゃなくす」が抽出される(付録C参照)。

この定式化の特徴は、Xが変数である点にある。特定の対象ではなく、任意の対象への適用可能性を持つ。しかしその適用は、対象の認識論的地位を根本から変えうる。この記述はノートに一度だけ現れ、以後繰り返されることはない。

1.3.2 研究の記述

治さんの代表的な研究対象は、北岡明佳(立命館大学)が発見した「蛇の回転錯視」にあたる。静止画でありながら、見る者に回転運動を知覚させる錯視図形で、なぜ静止画が動いて見えるのか——この問いに対して、治さんは「予測符号化理論」によるアプローチを提唱した。脳は外界を受動的に受け取るのではなく、次に何が起こるかを常に予測している。蛇の回転錯視図形は、脳の予測システムに特定のパターンで誤差信号を発生させ、その誤差が「動き」として解釈される——これが治さんの仮説にあたる。

この仮説を検証するため、治さんらは予測符号化の原理を実装した深層学習モデル「PredNet」を用いた実験を行った(2018年、Frontiers in Psychology掲載)。PredNetに蛇の回転錯視図形を入力したところ、モデルは人間と同様に「動き」を出力した。錯視は人間の脳の欠陥ではなく、予測という認知原理から必然的に生じる。

治さんの研究過程は、以下のように要約できる。

  1. 錯視を発見・収集する——蛇の回転錯視など、知覚と現実のズレを示す現象
  2. メカニズムを解明する——予測符号化理論による説明、深層学習モデルによる検証

一見すると、これは通常の科学研究に見える。しかし、治さんの構想を理解するには、まず「科学」という分類体系の性質を確認する必要がある。

1.3.3 科学とは何か

科学では、現象を観察し、問いを立て、理論を構築し、検証する。この過程で、現象は「説明されるべき対象」として特定の位置に置かれる。

要素 機能
現象(観察事実) 説明されるべき対象
問い(なぜ?どのように?) 研究の駆動力
理論 現象の説明・予測
分類(正常/異常) 認識論的位置づけ

現象は「なぜ」「どのように」という問いの対象となり、理論はその問いへの応答となる。科学は、問いを軸に構成された体系といえる。

例として、「物体はなぜ落ちるのか?」という問いの歴史を辿ってみる。

アリストテレス(前384–前322年)にとって、落下は目的論的な問いだった。「なぜ物体は落ちるのか」——それは物体が本来あるべき場所(自然的場所)へ向かうからだと説明された。問いと答えは、存在の目的をめぐって閉じていた。約二千年後、ガリレオ(1564–1642年)はこの問いの構造そのものを転換した。「なぜ」ではなく「どのように」。彼は落下の原因を問わず、落下の法則を記述した。斜面実験と数学的抽象化によって、等加速度運動という形式が抽出される。ニュートン(1642–1727年)は「どのように」を「何によって」へと深化させた。1687年の『プリンキピア』で提示された万有引力——離れた物体間に働く力という概念装置が、天上と地上を統一する。しかしニュートン自身、重力が「何であるか」については沈黙した。"Hypotheses non fingo"(私は仮説を作らない)。アインシュタイン(1879–1955年)はその沈黙を破った。1915年の一般相対性理論において、重力は力ではなく、時空の幾何学的構造そのものであると示された。問いは「何によって」から「何であるか」へと移行した。そして今日、物理学者たちは問い続けている——量子スケールにおいて時空とは何か。一般相対性理論と量子力学の統合は、未だ開かれた問いのままにある。

ここで注目すべきは、問いが終わらないという点にある。説明が精緻になるほど、問いは深まる。科学にはそのような性質がある。

錯視が科学に収録されているとき、それは問いに囲まれた存在になる。「なぜ動いて見えるのか」——この問いは、重力への問いと同様に、終わることがない。

1.3.4 切り離しの意味

治さんが錯視を「錯視じゃなくす」とき、何が起こるか。

錯視 ─[科学に収録]→ 「なぜ動いて見えるのか」という問いに囲まれる
     ─[問いを付けずに提示]→ 問いから切断
     ─[解放]→ 科学的説明を失った現象として再出現

科学者が錯視を見せるとき、通常は説明がセットになる。「これは蛇の回転錯視です。脳の予測システムが誤差信号を生成するため、動いて見えます」——このように、錯視は常に「なぜ」という問いへの応答とともに提示される。

「錯視を錯視じゃなくす」とは、この問いを切り離す操作にあたる。問いから切断し、効果だけを残す。

切り離された錯視は、もはや研究対象ではない。それは問いを失い、科学的分類から離脱し、ただの効果として現れる。

1.3.5 解放された現象

切り離された錯視は、どこへ行くのか。

治さんのノートには「Illusion → Pop Art へ!!」「皆が楽しめる研究!!」と記されており、錯視をPop Artとして提示することを構想している。科学的な説明は付けず、効果だけを誰もが体験できる形で展開する。

このとき、観客は何を見るか。

これが「問いからの解放」にあたる。


1.4 構造の並列化

1.4.1 操作の対照

1.2節と1.3節で、司さんと治さんの操作をそれぞれ分析した。ここで両者を並置し、共通構造を抽出する。

【司の切り抜き】              【治の切り抜き】

図鑑                         科学
┌─────────────┐              ┌─────────────┐
│ アゲハチョウ │              │  「錯視」    │
│   [蝶の像]   │              │  =問いの対象 │
└──────┬──────┘              └──────┬──────┘
       │                            │
       │ ハサミで切る                │ 問いを付けずに提示
       ↓                            ↓
   解放された蝶                  解放された錯視
(名前を失った存在)          (説明を失った存在)
       │                            │
       ↓                            ↓
インスタレーション               Pop Art

一見すると、両者は全く異なることをしているように見える。司さんはハサミを手に取り、紙を切る。治さんは問いを切り離す。物理的な行為と、概念的な操作。しかし、この図が示すように、操作の構造は同型といえる。

1.4.2 共通構造の定式化

両者が行っている操作を、一つの構造として定式化する。

「分類体系から対象を切り抜いて、解放する」

ここで「分類体系」とは、対象に名前やカテゴリを与え、特定の位置に固定するシステムを指す。図鑑も科学も、この意味での分類体系にあたる。

体系 対象 固定の方法 結果
図鑑(命名体系) 名前を与える 「アゲハチョウ」として固定
科学(問いの体系) 錯視 問いを課す 「なぜ動くのか」の対象として固定

図鑑は蝶に名前を与え、「アゲハチョウ科」「シジミチョウ科」といったカテゴリに位置づける。科学は錯視に問いを課し、「説明されるべき現象」として位置づける。どちらも、対象を特定の枠組みの中に収め、その枠組みの言葉で記述する。

ステップ1: 切り抜き——分類体系から対象を切断する

切り抜く元 図鑑(命名体系) 科学(問いの体系)
切断されるもの 名前と対象の結びつき 問いと対象の結びつき
切断の方法 ハサミで物理的に切る 問いを切り離して提示する

司さんが蝶を図鑑から切り抜くとき、蝶と「アゲハチョウ」という名前の結びつきが切断される。治さんが錯視を問いなしで提示するとき、錯視と「なぜ動くのか」という問いの結びつきが切断される。

方法は異なる(物理的切断 vs 概念的切断)。しかし、分類体系と対象の結びつきを断つという点で、両者は同一の操作を行っている。

ステップ2: 解放——分類体系の外へ

解放後の状態 名前を失った存在 説明を失った現象
解放先 インスタレーション Pop Art

切り抜かれた蝶は、もはや「アゲハチョウ」ではない。名前を失い、分類体系の外に出る。切り離された錯視は、もはや「解明すべき謎」ではない。問いを失い、分類体系の外に出る。

どちらも分類体系から解放された状態に至る。この状態を、司さんはインスタレーションとして、治さんはPop Artとして提示する。


この二つのステップ——切り抜き(分類体系からの切断)解放(分類体系の外への移行)——が、両者の操作に共通する構造となっている。

方法は異なる(ハサミ vs 問いの切り離し)。対象も異なる(蝶の像 vs 錯視)。文脈も異なる(図鑑 vs 科学)。しかし、抽象化して操作の構造を取り出せば、両者は同一のことをしている。この「具体的差異と構造的同一性の共存」が、両者の関係の核心にあたる。

1.4.3 言語化と実践

治さんは操作を言葉にした。「XをXじゃなくす」という定式化は、錯視にも蝶にも適用可能な抽象的構造を持つ。しかし、治さんのPop Art構想は長らく構想段階にあり、2025年の「Morning Monsters / W Eiji」展で初めて芸術作品として展示された。

司さんは操作を実践し続けた。30年以上にわたって図鑑から像を切り抜き、インスタレーションとして配置してきた。しかし、「XをXじゃなくす」のような操作の明示的な定式化は行っていない。

言語化 ✓(「XをXじゃなくす」) ✗(暗黙的)
実践 △(構想段階、2025年に展示) ✓(30年以上の制作)

両者の関係は結論で改めて検討する。


本章のまとめ

本章では、司さんと治さんの操作をそれぞれ分析し、共通構造を抽出した。

司さんは図鑑から蝶の像を物理的に切り抜く。名前と分類を剥ぎ取られた蝶は、「アゲハチョウ」でも「標本」でもない不確定な存在として現れる。治さんは科学的問いを付けずに錯視を提示する。「なぜ動いて見えるのか」という問いから切断された錯視は、説明を失った効果として現れる。

項目 内容
共通構造 分類体系から切り抜き → 解放
差異と共通性 具体的レベル(方法・対象・文脈)では異なり、構造レベルでは同一
言語化と実践 治=言語化、司=実践

両者の操作は同一の構造として記述できる。方法も対象も文脈も異なるが、「分類体系から対象を切り抜いて、解放する」という操作において同型といえる。ただし、構造が同一であることは、態度が同一であることを意味しない。