第四章:揺らぎの架け橋

第三章では、頻度と越境の関係が見かけ上の現象であり、接続の本質は「共通の構造」にあることを確認した。また、治さんが操作と態度・志向を分離して言語化したことが、頻度差を生む条件であることを示した。

しかし、ここで一つの問いが残る。共通の構造を持ちながら、なぜ治さんと司さんは正反対の態度をとりうるのか。同じ操作が、カテゴリを与える態度にも、与えない態度にも接続できるのはなぜか。

この問いに答えるために、本章では「揺らぎ」という概念を導入する。「揺らぎ」とは、切り抜き操作によって生まれる不確定な状態を指す。この概念を導入することで、操作と態度が論理的に独立していること——したがって、共通の構造が異なる態度を許容すること——を説明できる。

本章の構成は以下の通りである。まず「揺らぎ」の定義と切り抜き操作との関係を検討する(4.1節)。次に、デュシャンを加えた四者の比較を通じて、揺らぎへの態度の差異を明らかにする(4.2節)。最後に、構造の共通性と態度の異質性がなぜ共存できるのかを検討する(4.3節)。


4.1 揺らぎの創出

4.1.1 沈黙する意識——治さんのテーゼ

治さんは2007年3月16日に書いた:

「Consciousness は基本的に silent であり言葉を発することがない」

このテーゼ自体が、ノートに一度だけ書かれた概念である。内容(意識は言葉を発しない)が形式(一度だけ書かれた)を反映しているように見える。

このテーゼを治さん自身のノート記述行為に適用すると、興味深い対応が見えてくる。

意識の状態 記述の特徴 結果
言葉を発する 繰り返し言及する 概念が固定される
沈黙する 一度だけ書く 概念が開かれたまま残る

治さんは、最も重要なこと——「XをXじゃなくす」という認識論的操作——を一度だけ書いた。これは第三章で分析した「操作と態度・志向の分離」と整合する。操作のみの言語化は沈黙に近く、態度・志向を含む言語化(Pop Art構想)は言葉を発することに近い。

4.1.2 揺らぎとは何か

「概念が開かれたまま残る」とは、具体的にどういう状態か。

Pop Art構想を例に考える。治さんはPop Art構想を繰り返し言及し、iPopArt、bPopArt、nPopArt、sPopArtと分類し、具体的な展覧会計画まで練り上げた。その結果、Pop Art構想は治さん固有の文脈に強く結びついている。

一方、「XをXじゃなくす」は一度だけ書かれた。四つの具体例(錯視、動く、赤、光る)は挙げられているが、それ以上の展開はない。Xに何を代入するかは規定されていない。錯視でも、蝶でも、スープ缶でも代入可能である。

Pop Art構想 「XをXじゃなくす」
言及回数 14回以上 1回
文脈への結合 強い(治固有) 弱い(普遍的)
状態 閉じている 開かれている

この「開かれている」状態——固定されていない、意味が確定していない、他の文脈で再解釈可能な状態——を「揺らぎ」と呼ぶ。

固定された概念は、その領域の言語で完全に記述されている。揺らぎを持つ概念は、記述が不完全であるがゆえに、他の領域の言語で再記述可能になると考えられる。

4.1.3 切り抜きと揺らぎ

第一章で分析した「切り抜き」操作は、揺らぎを生み出す操作として位置づけられる。

【切り抜き前】          【切り抜き後】
┌─────────────┐        ┌─────────────┐
│  図鑑/科学   │        │   揺らぎ    │
│  ┌───────┐  │        │  ┌───────┐  │
│  │アゲハ │  │   →    │  │ ???? │  │
│  │チョウ │  │  切断   │  │      │  │
│  └───────┘  │        │  └───────┘  │
│  固定された  │        │  固定されて │
│  カテゴリ   │        │  いない存在 │
└─────────────┘        └─────────────┘

切り抜かれた蝶は、もはや「アゲハチョウ」ではない。しかし、何であるかも確定していない。標本か、芸術か、存在そのものか——この不確定性が揺らぎである。

同様に、「錯視を錯視じゃなくす」は、錯視を科学的問いから切り離す。切り離された錯視は、もはや問いの対象ではない。しかし、何であるかは完全には確定しない。効果か、体験か、Pop Artの素材か——この不確定性が揺らぎである。

「切り抜き」操作は、対象を分類体系から切り離すことで、揺らぎを創出する。

4.1.4 言語的固定からの離脱——治と司の共鳴

治さんの「沈黙する意識」と司さんの「名前から切り離す」操作は、言語的固定からの離脱という点で共鳴している。

司さんの操作について、越後妻有アートトリエンナーレの公式解説:

"By cutting the figures out of the pages in the reference books, each butterfly is severed from the names given to them."

対象 意識
主張/操作 意識は言葉を発しない 名前から切り離す
共通構造 言語的固定からの離脱 言語的固定からの離脱

ただし、両者の「沈黙」には差異がある。

治さんの沈黙は発見される。治さんは神経科学者として、脳が行う知覚現象を研究している。錯視を観察し、予測符号化を分析し、意識のメカニズムを探求する。その営みの中で、意識の本質が言語化を拒むことに気づく。意識について語ろうとすればするほど、意識そのものは遠ざかる。「沈黙する意識」は、観察の結果として見出されたものといえる。沈黙は最初からそこにあり、治さんはそれを発見した。

司さんの沈黙は創出される。図鑑の中の蝶は沈黙していない。「アゲハチョウ」「モンシロチョウ」と名前を与えられ、分類体系の中に位置づけられている。蝶は雄弁に語っている——自分が何であるかを。司さんがハサミで切り抜くとき、この雄弁さが断ち切られる。切り抜かれた蝶は、もはや「アゲハチョウ」ではない。名前を失い、沈黙する。沈黙は最初からそこにあったのではなく、介入によって生み出された。

この差異は、両者の方法の違いを反映している。治さんは既にある現象を観察し、司さんは新しい状態を作り出す。しかし、構造的には両者は同一の操作——言語的固定からの離脱——を共有している。到達点は同じでも、そこに至る道筋が異なる。


4.2 揺らぎへの態度——四者の比較

4.2.1 なぜデュシャンを導入するか

第二章では、ウォーホール・治さん・司さんの関係を「共通の構造」と「態度の差異」として記述した。ウォーホールと治さんはカテゴリを与える態度で一致し、司さんだけがカテゴリを与えない態度をとる。

この三者の構図では、司さんの態度が例外的に映る。二対一の構図は、カテゴリを与える態度を「標準」とし、与えない態度を「逸脱」と見せかねない。

しかし、20世紀芸術の歴史を振り返れば、対象を不確定なまま維持する態度は重要な系譜を形成してきた。マルセル・デュシャンはその創始者といえる。1917年の《泉》——男性用小便器に署名しただけの作品——は、100年以上経った今も「これは芸術か」という問いを開いたままにしている。

デュシャンを加えることで、構図は二対二に変わる。

態度 作家
カテゴリを与える ウォーホール、治さん
カテゴリを与えない デュシャン、司さん

この対称性によって、どちらの態度も「切り抜き」という共通の操作から生じうる正当な選択肢であることが見えてくる。司さんの態度は例外ではなく、デュシャン以来の系譜に連なるものである。

デュシャン ウォーホール
揺らぎの創出
揺らぎへの態度 維持する 即座に解消 解消する 維持する
揺らぎの持続 108年以上 瞬間的 瞬間的 約40年

カテゴリを与えるとは、揺らぎを解消することにあたる。カテゴリを与えないとは、揺らぎを持続させることにあたる。

4.2.2 カテゴリを与える態度——ウォーホールと治さん

ウォーホール

ウォーホールの「切り抜き」は、消費社会から商品や有名人を切り離す。スーパーマーケットの棚からスープ缶を取り出し、美術館の壁に並べる。

この操作の瞬間、揺らぎが生じる。スープ缶は、もはやスーパーの棚の上の商品ではない。しかし、何であるかはまだ確定していない。芸術作品か、単なる商品の展示か、皮肉か、賛美か——この不確定性が揺らぎである。

しかしウォーホールにとって、揺らぎは一瞬にとどまる。スープ缶を美術館に置いた瞬間、それは「芸術」というカテゴリを得る。"Art is what you can get away with."——やってのければ芸術になる。揺らぎは宣言によって即座に解消される。

治さん

治さんの「切り抜き」は、科学から錯視を切り離す。「錯視を錯視じゃなくす」操作は、「なぜ脳はこう知覚するのか」という問いの束から錯視を切り離す。

この切り離しの瞬間、揺らぎが生じる。錯視は、もはや「解くべき問題」ではない。しかし、何であるかはまだ確定していない。

しかし治さんは、この揺らぎをPop Art構想によって解消する。「皆が楽しめる研究!!」「Illusion → Pop Art へ!!」——これらの宣言は、錯視に新しいカテゴリを与える。

ウォーホールと治さんに共通するのは、揺らぎを瞬間的に解消する態度といえる。

4.2.3 カテゴリを与えない態度——デュシャンと司さん

デュシャン

デュシャンは1917年に《泉》——男性用小便器に「R. Mutt」と署名しただけの作品——を発表した。この操作は、日用品を日常の文脈から切り離す。

この操作の瞬間、揺らぎが生じる。小便器は、もはやトイレの備品ではない。しかし、何であるかは確定していない。芸術作品か、挑発か、冗談か——この不確定性が揺らぎである。

デュシャンは、この不確定性にカテゴリを与えなかった。100年以上が経過した今も、《泉》をめぐる「これは何か」という問いは開かれたままである。

司さん

司さんの「切り抜き」は、図鑑から蝶を切り離す。司さんはハサミでこの蝶を切り抜く。

この操作の瞬間、揺らぎが生じる。切り抜かれた蝶は、もはや「アゲハチョウ」ではない。しかし、何であるかは確定していない。標本か、芸術作品か、存在そのものか——この不確定性が揺らぎである。

司さんは揺らぎにカテゴリを与えない。1980年代から切り抜きを続け、約40年が経過しても、蝶は「芸術作品だ」とも「存在そのものだ」とも宣言されない。「小さな転覆」という言葉が2025年に結晶化したが、「転覆」は秩序を覆す行為であり、新しい秩序を確立する行為ではない。

デュシャンと司さんに共通するのは、揺らぎを長期間維持する態度といえる。

4.2.4 態度の操作的定義

四者を揺らぎの持続時間で整理すると、以下のようになる。

創出時期 揺らぎの持続 態度
デュシャン 1917年 108年以上 カテゴリを与えない
1980年代〜 約40年 カテゴリを与えない
ウォーホール 1962年 瞬間的 カテゴリを与える
2008年 瞬間的 カテゴリを与える

揺らぎの持続時間は、態度の操作的な定義を提供しうる。

「態度」という主観的に見える概念が、時間という観察可能な指標へと変換されうる。この相関は、第三章で発見した「態度と言語化頻度の関係」の別の表現でもある。言語化は意味を固定し、揺らぎを解消する傾向がある。言語化を遅延・最小化することは、揺らぎを維持することと重なっている。


4.3 構造と態度の共存

4.3.1 揺らぎの架け橋——表層と構造

ここで、「揺らぎ」と「接続」の関係を整理する。

表層的な理解:

揺らぎ(一回性・低頻度)→ 翻訳可能性 → 越境接続

この理解は、揺らぎが接続の原因であるかのように見える。一度だけ書かれた概念は固定されていないから、他の文脈に翻訳可能であり、結果として越境接続が生じる。

構造的な理解:

共通の構造 → 接続
揺らぎは、共通の構造を発見可能にする条件である

構造的な理解では、因果関係が異なって見えてくる。

治さんが2007年に「XをXじゃなくす」を書いたとき、司さんは既に蝶を切り抜いていた。両者は互いを知らなかったが、同じ操作を行っていた。「分類体系から対象を切り抜いて、解放する」——この構造的同型性は、分析者が気づく前から、二人の実践の中に既に存在していた。

では揺らぎは何をしたのか。治さんの「XをXじゃなくす」は、Xに何でも代入できるという構造を内在している。この開放性ゆえに、分析者は「Xに蝶を代入すれば、司さんの操作と同じになる」と気づくことができた。

もし治さんが「錯視を錯視じゃなくす」とだけ書いていたら、構造的共通性は依然として存在していただろうが、その共通性は見えにくくなっていただろう。

接続は最初からあった。揺らぎは、その接続を見えるようにする窓にあたる。

これを「揺らぎの架け橋」と呼ぶ。揺らぎは接続を生み出す原因ではなく、接続を発見可能にする条件である。

4.3.2 操作と態度の独立性

序章で、本レポートの主張として「構造の共通性と態度の異質性の共存」を挙げた。ここで核心的な問いに取り組む:なぜ共通の構造が、正反対の態度を許容するのか?

【操作】分類体系 → 切り抜き → 揺らぎ(不確定な存在)
                              ↑
                              │ 揺らぎの創出までは共通
                              │
                              │ ここから分岐
                              ↓
【態度A】揺らぎ → 新しい確定 → 固定された意味(閉じる)
【態度B】揺らぎ → 揺らぎの維持 → 持続する問い(開く)

切り抜き操作は揺らぎを創出する。揺らぎの創出までは、四者に共通である。分岐は揺らぎのに生じる。

操作「X → 否定 → X'」は、X'の存在を生み出す。しかし、操作はX'の取り扱い方までは規定しない。X'が存在するという事実は確定しているが、X'をどのように扱うか——新しいカテゴリを与えるか、問いのまま残すか——は未確定のままである。

段階 規定されるもの 規定されないもの
操作 X'の存在 X'の意味
態度 閉じる/開くの選択

この論理的独立性が、同一の構造が異なる態度を許容する根拠と考えられる。

ここで、治さんの場合を検討する。治さんが切り抜いた後にカテゴリを与えなかったら、それは科学に戻ることを意味するのか?

必ずしもそうではない。切り抜き操作によって、錯視は既に科学という分類体系から解放された状態にある。解放された対象は、元の分類体系に戻るのではなく、以後の状態にある。カテゴリを与えなくても、それは「科学の問いに戻る」ことではなく、どの分類体系にも属さない状態に留まることを意味する。

切り抜きは不可逆的な操作と考えられる。一度解放された対象は、新しいカテゴリを与えても与えなくても、もはや元の分類体系には属さない。この不可逆性が、「カテゴリを与える」と「与えない」の両方を真正な選択肢にしている。

4.3.3 矛盾の生産性

構造の共通性と態度の異質性の共存は、矛盾を生む。

観点 一致/矛盾
操作 切り抜き→解放 切り抜き→解放 一致
態度 カテゴリを与える カテゴリを与えない 矛盾
志向 大衆性 思索性 矛盾

では、この矛盾は何を意味しているのか。

治さんと司さんが全く異なる操作を行っていたならば、両者を並置する理由がない。「同じことをしている」という認識があるからこそ、「しかし態度は異なる」という発見に意味が生じる。共通の基盤があるからこそ、差異が際立つ。

さらに、治さんの態度を通して司さんの態度が見え、逆もまた然りである。対照がなければ、それぞれの態度は自明のものとして見過ごされやすい。

両者の間には補完関係がある。言語化と実践、カテゴリを与える態度と与えない態度——これらが揃うことで、「切り抜き」という操作が持つ可能性の幅が見えてくる。

W Eiji展は、この矛盾と補完の具体的な表現といえる。科学者と芸術家、言語化と実践、大衆性と思索性——これらの対が、共通の構造を基盤として一つの空間に並置された。


本章のまとめ

本章では、「揺らぎ」という概念を導入し、構造の共通性と態度の異質性がなぜ共存できるのかを検討した。

「切り抜き」操作は揺らぎを創出する。揺らぎとは、固定されていない、他の文脈で再解釈可能な状態を指す。治さんの沈黙は発見される——意識を観察する中で、その本質が言語化を拒むことに気づく。司さんの沈黙は創出される——図鑑の中で雄弁に語っていた蝶が、切り抜かれることで名前を失う。到達点は同じでも、そこに至る道筋が異なる。

デュシャン・司さん(カテゴリを与えない)とウォーホール・治さん(カテゴリを与える)の四者比較から、揺らぎの持続時間が態度の操作的定義を提供することが見えてきた。接続は最初からあった。揺らぎは、その接続を見えるようにする窓である——これが「揺らぎの架け橋」の意味である。

操作と態度は論理的に独立しており、共通の構造が異なる態度を許容する。構造の共通性と態度の異質性が生む矛盾は、対話の契機となり、相互照射を可能にする。