第二章:操作の表現形式

第一章で並列化した「共通の構造」は、両者において異なる表現形式をとる。本章では、その表現形式の違いを分析し、一回性と反復性の問いを検討する。


2.1 司側:「小さな転覆」の結晶化

2.1.1 言葉の収束過程

「小さな転覆」という言葉は、いつから使われていたのか。

外部資料の調査により、以下の収束過程が判明した(出典の詳細は結論・付録Bを参照)。

出典 使用された表現
2009 越後妻有トリエンナーレ 「逆にして」「既存の概念や認識を問い直す」
2010 あいちトリエンナーレ 「蝶の名前/名前の蝶」(タイトル)
2017 美術手帖ウェブ版 「さまざまなアプローチで対象を再考する」
2020 井上昇治(批評家) 「逆転、反転、転覆、ずらし、宙づり」
2025 大府市公式プロフィール 「小さな転覆」

この収束過程は、治さんの場合と対照的といえる。治さんは2008年に「XをXじゃなくす」を一度だけ書き、それ以降繰り返さなかった。司さんは30年以上にわたって実践を続け、その実践を記述する言葉が徐々に収束していった。

2.1.2 なぜ言語化に30年以上かかったのか

司さんの操作が「小さな転覆」として言語化されるまでに30年以上を要したのはなぜか。

第一に、実践の優位性が挙げられる。司さんにとって、切り抜きという行為は言葉に先立つ。図鑑を開き、ハサミを手に取り、蝶を切り抜く——この身体的実践が作品を生み出す。言葉は後から来る。あるいは、来なくてもよい。作品が語り、作家が自ら語る必要はないという姿勢がうかがえる。こうした態度が、言語化を急がない姿勢として現れている。

第二に、操作の多様性が挙げられる。司さんの作品には、「逆転、反転、転覆、ずらし、宙づり」という複数の技法が含まれている。2020年に批評家・井上昇治がこれらを列挙したとき、それは司さんの操作の豊かさを示すものだった。しかし、これらの技法を単一の原理に統合する言葉は、まだ見つかっていなかった。「小さな転覆」は、これらの多様な技法を包括する言葉として、2025年に結晶化した。

第三に、不確定性を維持する態度との整合性が考えられる。司さんの作品は「これは何か」という問いを開いたまま残す。作品の意味を確定させない。同様に、自らの操作を言語化することも、意味を確定させることになりかねない。「私がやっていることは『小さな転覆』です」と宣言した瞬間、解釈の余地が狭まりかねない。言語化を遅らせることは、不確定性を維持し続ける態度の表れとも考えられる。

2.1.3 「小さな」という形容詞

「転覆」ではなく「小さな転覆」と言う。この「小さな」という形容詞は何を意味するか。

2025年の公式プロフィールには、こう書かれている:

「身近な事物に起こされた小さな転覆により、深遠かつユーモアに富んだ視点を生み出す」

「小さな」は、操作の規模を指している。蝶を図鑑から切り抜くこと——それは世界を変えるような大きな転覆ではない。日常の片隅で、ほとんど気づかれないような、小さな介入にすぎない。しかし、その小さな介入が「深遠かつユーモアに富んだ視点」を生み出す。

ここに司さんの方法論が見えてくる。大きな転覆は暴力的になりがちで、破壊を伴いやすい。しかし、小さな転覆は穏やかで、創造的といえる。蝶を切り抜くことは、図鑑を破壊することではない。図鑑は図鑑として残る。しかし、切り抜かれた蝶は、もはや図鑑の中にいない。小さな介入が、存在の様態を変えていく。

「小さな」という形容詞は、司さんの操作の特質を示している。微細で、控えめでありながら、確実に何かを変える。大きな転覆は暴力的になりかねないが、小さな転覆は静かで持続的な性質を帯びている。

2.1.4 類義表現の系譜

「小さな転覆」に至るまで、様々な類義表現が使われてきた。

表現 使用時期 ニュアンス
「逆にして」 2009年〜 方向の反転
「問い直す」 2009年〜 批判的検討
「再考する」 2017年〜 考え直し
「逆転」 2020年〜 上下・左右の反転
「反転」 2020年〜 対称的な入れ替え
「転覆」 2020年〜 体制・秩序の覆し
「ずらし」 2020年〜 微小な位置変更
「宙づり」 2020年〜 決定の保留

2020年の批評(井上昇治):

「渡辺さんの作品には、逆転、反転、転覆、ずらし、宙づり等による世界への深く、ユーモアに富んだ眼差しがある。」

これらの類義表現は、それぞれ異なるニュアンスを持っている。「逆転」と「反転」は幾何学的な操作を連想させ、「転覆」は政治的・社会的な響きを帯びる。「ずらし」は微細な差異を、「宙づり」は決定の保留を示す。

「小さな転覆」は、これらの中から「転覆」を選び取り、「小さな」という形容詞を付加したものにあたる。「逆転」や「反転」では幾何学的すぎる。「ずらし」では弱すぎる。「宙づり」では受動的すぎる。「転覆」は体制や秩序を覆す力を持つが、「小さな」がその暴力性を和らげる。この言葉の選択は、複数の技法を単一の原理に統合しながら、司さんの操作の特質——穏やかでありながら確実に何かを変える——を表現しているといえる。

2.1.5 反復性の多層構造

司側における「反復性」には、複数の層がある。

内容 反復のタイプ 時期
制作実践 30年以上にわたる図鑑切り抜き作品 行為の反復 1980年代〜現在
批評的認識 「転覆」を含む技法の列挙 観察の反復 2020年〜
公式言語化 「小さな転覆」としての定式化 表現の結晶化 2025年

最も深い層は「制作実践」にあたる。司さんは30年以上にわたって、図鑑から像を切り抜き、インスタレーションとして配置するという行為を繰り返してきた。蝶、鳥、魚——対象は変わっても、操作は共通している。この行為の反復が、作品群を生み出してきた。

中間の層は「批評的認識」にあたる。批評家や学芸員が、司さんの作品を言葉で記述してきた。「逆にして」「問い直す」「再考する」——これらの言葉は、外部からの観察として、司さんの操作を捉えようとしてきたものといえる。2020年の井上昇治による「逆転、反転、転覆、ずらし、宙づり」という列挙は、この認識の蓄積の表れと見ることができる。

最も表に現れる層は「公式言語化」にあたる。2025年の「Morning Monsters / W Eiji」展において、「小さな転覆」という言葉が公式プロフィールに記された。これは、30年以上の実践と、批評的認識の蓄積を経て、ようやく結晶化した言葉と考えられる。


2.2 治側:「XをXじゃなくす」の一回性

2.2.1 ノートの常態

治さんのノートは断片で満ちている。未完の文、途切れた論理、描きかけの図、走り書きのメモ——25冊、20年以上にわたる記録の大半は、一度書かれたまま、再び参照されることが少ない。

その中には、詩的な洞察もある。「π は 無限を 有限にする方法」(2007年)。「時空間を創造するか、それが意識である」(2007年11月9日)。「1は心の意志である」(2007年10月5日)。いずれもノートに一度だけ現れ、以後繰り返されることはない。イラスト、数式、図表、言葉の断片が混在し、一見すると散漫に見える——思考が揺らいでいるのが、ノートの常態といえる。

一度きりの記述は、例外ではなく規則に近い。むしろ、繰り返し現れる概念——Predictive Coding、意識、Delta Model——の方が少数派にあたる。一回的断片のひとつが特別な意味を持つとすれば、それは「一度だけ書かれた」という事実だけによるものとは限らない。

ここで問われるのは、「無数の一回的断片の中で、何がある記述を特異なものにするのか」という点にある。

2.2.2 「XをXじゃなくす」の特異性

治さんのノートには、2008年頃、次のような記述がある(第一章1.3.1)。「錯視を錯視じゃなくす。動くを動くじゃなくす。赤を赤じゃなくす。光るを光らなくする。」——四つの具体例が並べられ、さらに五番目の候補が検討・棄却されている(付録C参照)。候補を選別する行為自体が、変数構造の存在を示している。治さんは「XをXじゃなくす」という変数構造で操作を定式化していた。

他の一回的断片との違いは、いくつかの点に集約される。

第一に、変数構造の内在が挙げられる。「πは無限を有限にする方法」は円周率という特定の対象を扱う。「時空間を創造するか、それが意識である」は意識という特定の主題に結びついている。これらは、それぞれの文脈の中で完結した洞察といえる。対して「XをXじゃなくす」のXは変数であり、錯視でも、蝶でも、スープ缶でも代入できる。四つの具体例と五番目の候補の棄却(付録C)は、治さん自身がこの変数構造で思考していたことを示している。

第二に、自己言及的構造が挙げられる。「XをXじゃなくす」において、Xは変換の対象でありながら、変換の基準としても機能している。対象を、それがそうであるという自明性から引き剥がす——この操作は、対象が何であるかに依存しにくい。

第三に、具体と抽象の共存が挙げられる。治さんは変数構造を持ちながら、それをXという記号で書くのではなく、四つの具体例として記述した。これは「数式化は不正確をまねく」という彼自身の信念と整合する。ただし、ここで注意すべきは、治さんが批判する「数式化」とは現象のモデル化——方程式への還元——を指しており、変数を用いたパターンの記述とは異なる点にある。「XをXじゃなくす」は数式ではなく、言語的な変換の記述といえる。

これらの特徴は、他の一回的断片には見られない。「πは無限を有限にする方法」は美しい洞察だが、円周率の文脈に留まりやすい。「XをXじゃなくす」は、特定の文脈から離脱しうる形式そのものを記述している。

2.2.3 問いの束からの切り離し

治さんは日々、問いと向き合っている。なぜ静止画が動いて見えるのか。なぜ同じ色が違って見えるのか。なぜ同じ明るさが違って見えるのか。錯視の具体例には、それぞれ科学的な問いが付随している。

ところが、錯視を見た人は、説明を聞かなくても「動いて見える」。問いに答えられなくても、効果は誰にでも起きる。問いと効果は、分離が可能となる。

問いを切り離せば、効果だけが残る。説明がなくても、誰でも体験できる。

ノートの記述からうかがえるのは、問いの束から効果を切り離すという操作の輪郭である。「XをXじゃなくす」とすることで、この操作を一度の定式化で言い切ることができる。

2.2.4 一回性と沈黙

「XをXじゃなくす」が一度だけ書かれたことの意味を、ここで再考する。

ノートの多くの断片は、書きかけで、未完成で、思考の途上にある。一度しか書かれないのは、それが放棄されたためと考えられる。しかし「XをXじゃなくす」は放棄された断片とは異なる。四つの具体例が示す変数構造、自己言及的な操作——これらは、この定式化が書かれた瞬間にひとつの原理として完結していることを示している。

一度きりであることには、二つの異なる意味がありうる。ひとつは、未完成のまま放棄されたこと。もうひとつは、一度で完結したこと。「XをXじゃなくす」は後者にあたる。数学の定理が一度証明されれば繰り返す必要がないように、この定式化は書かれた瞬間に十分なものであったと考えられる。

治さんには「意識は基本的にsilentであり言葉を発しない」という核心テーゼがある(2007年3月16日)。このテーゼもまた、一度だけ書かれ、以後繰り返されない。ノートは私的な思考の記録であり、他者に向けた文章ではない。重要な原理を一度だけ書き留め、それ以上語らない。完結した形式と、言葉にしすぎないという態度——一回性は、この二つが重なるところに生まれている。

司さんの「小さな転覆」が30年以上の反復から結晶化したことと対比すると、治さんの言語化は逆の軌跡をたどる。反復の中から言葉が浮上するのではなく、一度の定式化で沈黙に帰る。


2.3 Pop Artという夢の層

Pop Artは1950年代後半にイギリスで萌芽し、1960年代のアメリカで爆発的に展開した芸術運動にあたる。アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズらが代表的な作家として知られる。その特徴は、大衆文化のイメージ——広告、漫画、商品パッケージ、有名人の肖像——を芸術の素材として取り込んだことにある。ウォーホルのキャンベル・スープ缶やマリリン・モンローのシルクスクリーンは、「高尚な芸術」と「俗なる大衆文化」の境界を無効化した。Pop Artは、芸術を一部のエリートのものから「皆が楽しめる」ものへと開放する運動でもあった。

治さんのノートには、このPop Artへの構想が繰り返し書かれている。「Illusion → Pop Art へ!!」「Art は Illusion そのもの」「皆が楽しめる研究!!」——これらの記述は、錯視研究を大衆に開かれた芸術へと昇華させたいという夢を示している。ウォーホルが大衆文化のイメージを芸術に変換したように、治さんは錯視という知覚現象を芸術に変換しようとしている。

2.3.1 夢の層と原理の層

Pop Artと「XをXじゃなくす」の関係は何か。

概念 機能 形式 出現回数
Pop Art What(何をするか) ビジョン・目標の宣言 14回
XをXじゃなくす How(どのようにするか) 操作原理(治さんの定式化) 1回

両者は同じ構想の異なる層にあたる。

Pop Artは「夢の層」に属する。「錯視を芸術にしたい」「皆が楽しめる研究にしたい」——これらは目標やビジョン、動機づけにあたる。夢は繰り返し語られることで力を持つ。ノートに14回以上書かれているのは、その夢が治さんの研究活動を駆動し続けていたためと考えられる。iPopArt、bPopArt、nPopArt、sPopArtといった変奏は、夢が様々な形で展開され、具体化されようとしていたことを示している。しかし、夢だけでは芸術は生まれにくい。「錯視を芸術にしたい」と願うだけでは、錯視は芸術にはなりにくい。

「XをXじゃなくす」は「原理の層」に属する。これは夢を実現するための認識論的アルゴリズムといえる。錯視を芸術にするためには、錯視を科学的問いから切り離さなければならない。「錯視を錯視じゃなくす」——すなわち、錯視から「なぜ動いて見えるのか」という問いを切り離し、効果だけを残す。この操作によって初めて、錯視は「皆が楽しめる」芸術になりうる。原理は一度書かれれば十分といえる。

┌─────────────────────────────────────────────────┐
│              Pop Art構想(反復)                 │
│   「錯視を芸術にしたい」という夢・ビジョン        │
│         ↑            【2008年〜:爆発的展開】    │
│         │ 正当化                               │
│         │                                      │
├─────────────────────────────────────────────────┤
│          「XをXじゃなくす」(一回)            │
│    科学的問いから切り離すアルゴリズム             │
│                      【2008年:一度だけ記述】     │
└─────────────────────────────────────────────────┘

2.3.2 認識論的問題と解決

Pop Art構想には、認識論的な障壁があった。

芸術にならない問題:

科学的文脈において、錯視には常に問いが伴う。「なぜ動いて見えるのか」「どのメカニズムで生じるのか」——錯視を見せるとき、これらの問いがついてくる。問いがある限り、錯視は科学の対象にとどまり、芸術にはなりにくい。そしてこの分類は、提示者にも及ぶ——科学者が見せる錯視は、「科学のデモンストレーション」として受容されやすくなる。

錯視 = 科学的問いの対象
    ↓
「なぜ?」という問いが常についてくる
    ↓
説明なしには提示できない

「XをXじゃなくす」による解決:

「錯視を錯視じゃなくす」とは、錯視を科学的問いから切り離すことを意味する。問いを付けずに提示する。すると、効果だけが残る。「動いて見える」——それだけで十分となる。説明がなくても、誰でも体験できる。これが「皆が楽しめる」の意味にあたる。

同時に、問いが消えることで、提示者の分類も効力を失う。説明を伴わない錯視は、もはや「科学のデモンストレーション」ではない。科学者が見せているという事実は残るが、科学の文法が機能していない以上、その分類は宙に浮く。

「錯視を錯視じゃなくす」(問いからの切り離し)
    ↓
錯視 = 効果だけ
    ↓
提示者の分類も効力を失う
    ↓
説明なしに誰でも体験できる
    ↓
Pop Art構想が可能になる

2.3.3 Pop Artが司さんに届かない理由

Pop Artは20年かけて練り上げられたが、司さんの「小さな転覆」とは直接接続していない。なぜか。

観点 Pop Art構想 小さな転覆 乖離
メディア 錯視(視覚科学) 図鑑からの切り抜き 異なる素材
時間性 瞬間的知覚 30年の蓄積 異なるスケール
方法 発見(脳が行う) 介入(手で行う) 異なる操作
対象 知覚の自明性 命名の自明性 異なる標的
美学 錯視の芸術化 名前の剥奪 異なる志向

表が示すように、Pop Art構想と「小さな転覆」の間には、あらゆる観点で具体的な乖離がある。メディアを見れば、治さんは錯視という視覚科学の現象を扱い、司さんは図鑑という印刷物を物理的に切り抜く。時間性を見れば、錯視は100ミリ秒という瞬間的な知覚体験にあたり、司さんの作品は30年にわたる断片の蓄積からなる。方法を見れば、錯視は脳が自動的に「発見」する現象にあたり、切り抜きは手で「介入」する行為にあたる。対象を見れば、治さんは知覚の自明性を問い、司さんは命名の自明性を問う。美学を見れば、治さんは錯視を芸術として提示しようとし、司さんは名前を剥奪することで存在を解放しようとする。

これらの乖離は、反復の副作用と考えられる。ビジョンは語り続けるほど具体性を増す。20年の反復を通じて、Pop Art構想は錯視という特定の現象、視覚科学という特定の領域、瞬間的知覚という特定の時間性と結びつき、固有性を帯びていった。固有性が増すほど、他の領域との接点は見出しにくくなる。

一方、「XをXじゃなくす」は治さんが定式化した抽象的原理にあたる。Xは変数であり、錯視でも、動きでも、色でも、何でも代入できる。この汎用性ゆえに、「XをXじゃなくす」は領域を越境できる。司さんの「蝶を蝶じゃなくす」(名前を剥奪して存在として解放する)という操作も、このXに代入可能となる。抽象度が高いからこそ、異なる領域間の構造的共通性が見えてくる。

Pop Art(反復)─────×─────司側
   │                    (接続しない)
   │ 同一構想の
   │ 異なる層
   ↓
XをXじゃなくす(一回)──✓──小さな転覆
                      (接続する)

この図は、反復と一回性のパラドックスを示している。20年かけて練り上げられたPop Art構想は司さんに届かず、一度だけ書かれた「XをXじゃなくす」が「小さな転覆」に接続する。反復が接続を生むとは限らない。むしろ抽象化が接続を生んでいる。そして、最も抽象的な原理は、一度だけ記述されれば十分なものとなりうる。


2.4 実践と言語化の対照

2.4.1 時間構造の比較

治さんと司さんの対比において、実践と言語化の時間関係は対照的となっている。

実践 科学研究(1990年代〜) 図鑑切り抜き(1980年代〜)
言語化 2008年(「XをXじゃなくす」) 2025年(「小さな転覆」)
実施 2025年(W Eiji展) 30年以上の作品群
時間差 構想から実施まで17年 実践から言語化まで30年以上

治さんの場合、2008年にPop Art構想と「XをXじゃなくす」が同時に結晶化した。夢と原理が同時に現れた。しかし、実際にPop Artとして実施されたのは2025年のW Eiji展——科学的問いを切り離し、効果だけを芸術として提示した瞬間——にあたる。構想から実施まで17年を要した。

司さんの場合、実践が言語化に30年以上先行した。1980年代から図鑑切り抜きを続け、2025年にようやく「小さな転覆」として言語化された。言葉は後から来た。あるいは、言葉がなくても作品は存在し続けていた。

この時間差は、両者の態度の違いを反映している。治さんは構想と原理を言語化してから実施に向かう。司さんは実践を続け、言語化は後から追いつく。

2.4.2 暗黙の操作構造

「小さな転覆」という言葉は、司さんの操作を記述している。しかし、「X → 否定 → X'」という形式——治さんの「XをXじゃなくす」——は、司さん自身によっては言語化されていない。

司さんの操作を形式化すれば:

蝶 → 否定(名前を剥奪)→ 蝶'(言語以後の存在)

この構造は、治さんの「錯視 → 錯視じゃなくす → 錯視'」と同型といえる。しかし、司さんはこの構造を言葉にしていない。それは実践の中に暗黙的に埋め込まれているように見える。

2.4.3 言語化と実践の対照

言語化 ✓(「XをXじゃなくす」) ✗(暗黙的)
実践 △(構想段階、2025年に展示) ✓(30年以上の作品群)

治さんは操作を言葉にした。司さんは操作を実践し続けた。両者の関係は結論で詳しく検討する。


2.5 ウォーホールとの三角形

本節では、ウォーホールを参照点として導入し、治さん・司さんとの三者関係を検討する。

三者を比較する中で、一つの区別が浮かび上がる。切り抜いた後、対象をどう扱うか——新しいカテゴリを与えて固定するか、カテゴリを与えず不確定なまま残すか。この態度の違いを、以下では便宜的に「閉じる」「開く」と呼ぶ。

この区別は、問いの種類(科学的か存在論的か)ではなく、カテゴリ付与という実践上の選択に基づいている。

2.5.1 Pop Artの論理的親和性

治さんがPop Artを構想したのは、単なる個人的な夢にとどまらない。錯視という現象とPop Artの間には、論理的親和性がある。

Pop Artの特徴 錯視の特徴 一致
誰でも知っているもの 誰でも得られる驚きの体験
直接性(見れば分かる) 直接性(見れば驚く)
娯楽性(面白い) 親しみやすさ(日常との接続)
複製可能性(同じ効果) 複製の肯定(画像コピーでも100%維持)

治さんのノートの言葉とウォーホールの言葉は共鳴する:

「皆が楽しめる研究!!」 — 渡辺英治 "I think everybody should like the same things." — アンディ・ウォーホール

この共鳴は偶然とは考えにくい。両者は「エリートのための芸術/科学」という前提を拒否し、大衆への開放を志向している。ウォーホールがスーパーマーケットの商品を美術館に持ち込んだように、治さんは錯視という「誰でも驚きを得られる現象」を芸術の領域に持ち込もうとしている。

2.5.2 ウォーホールの「切り離し」操作

ウォーホールもまた、「分類体系から対象を切り離して解放する」という操作を行っていた。

キャンベル・スープ缶の場合:

スープ缶 ─[スーパーマーケットに陳列]→ 「商品」として分類
        ─[シルクスクリーンで複製]→ 商品という分類から切断
        ─[美術館に展示]→ 「芸術」として再出現

スーパーマーケットの棚に並ぶスープ缶は「商品」として扱われている。消費され、忘れられるべきものとして位置づけられている。ウォーホールはこれをシルクスクリーンで複製し、美術館の壁に並べた。そのとき、スープ缶は「商品」というカテゴリから切り離され、「芸術」として再出現する。

マリリン・モンローの場合:

マリリン ─[ハリウッドに所属]→ 「セックス・シンボル」として消費
        ─[死後、写真を複製]→ 消費対象という分類から切断
        ─[反復とズレ]→ 「アイコン」として永遠化

生前のマリリンは消費される対象として扱われていた。ウォーホールは彼女の死後、同じ写真を反復的に複製し、色をズラし、並置した。その反復の中で、マリリンは「消費されるセックス・シンボル」から「永遠のアイコン」へと変換される。

三者の操作比較:

切り離す元 対象 方法 解放先
ウォーホール 消費社会(商品/娯楽の分類) スープ缶、有名人 複製と反復 美術館(芸術)
科学(問いの体系) 錯視 問いを付けずに提示 Pop Art(芸術)
図鑑(命名体系) 蝶の像 ハサミで切り抜く インスタレーション(芸術)

三者はすべて「分類体系から対象を切り離し、芸術として解放する」という共通の構造として記述できる。しかし、切り離す元も、方法も、対象も異なる。操作の構造は共通するが、実装は大きく異なる

2.5.3 三角形の構造

              ウォーホール
             /          \
         共鳴              対照
     (皆が楽しめる)    (定義への態度)
       /                    \
    治さん ─────────────── 司さん
            共通の構造
       (分類体系からの切り離し)

この三角形は、単なる比較図ではない。二者関係では、大衆性の共鳴(治—ウォーホール)、態度の対照(司—ウォーホール)、構造の共通性(治—司)がそれぞれ見えるが、それぞれの関係だけを見ていては全体像は掴めない。三者を同時に見ることで初めて、操作・態度・志向という三つの次元が独立していることが浮かび上がる。

三者はすべて「分類体系から対象を切り離して解放する」という共通の操作を行っている。しかし、態度と志向のレベルでは分岐が生じる。ウォーホールと治さんは大衆性を志向しカテゴリを与えるが、司さんは思索性を志向しカテゴリを与えない。

ウォーホール
態度 新しいカテゴリを与える カテゴリを与えない
効果 対象が再び固定される 対象が不確定なまま残る
言葉 "Art is what you can get away with." 「小さな転覆」
時間性 瞬間的宣言 30年の蓄積
完結性 作品ごとに完結 断片の継続的集積

同一の操作が、カテゴリを与える態度にも、与えない態度にも接続しうる。操作は態度を決定しない——むしろ操作は、複数の態度への分岐点を提供しているにすぎない。

このパラドックスは、接続の性質を照らし出している。治さんと司さんの接続は、態度や志向の共有によるものではない。両者は態度においても志向においても異なる。接続は「同じことを考えているから」生じるとは限らない。むしろ「同じことをしているから」生じていると考えられる。三角形は、この原理を三者の対比によって浮き彫りにしている。

2.5.4 治さんの特異性

三角形の中で、治さんは特異な位置を占めている。態度と志向においてはウォーホール寄りといえる。「皆が楽しめる」という志向、Pop Artという構想、カテゴリを与える態度——これらはウォーホールとの共鳴を示している。

一方で、治さんの「XをXじゃなくす」は、三者が共有する操作を言語化したものにあたる。ウォーホールも司さんも、この操作を実践してきたが、言葉にはしなかった。治さんだけが、操作を定式化した。この定式化によって、三者の操作を統一的に記述できるようになる。

ここに架橋的な位置が見えてくる。ウォーホールと共有する態度・志向を持ちながら、三者が共有する操作を言語化した。「XをXじゃなくす」という原理は、態度や志向の違いを超えて、司さんの「小さな転覆」と接続可能となる。

ウォーホール ─── 治さん ─── 司さん
  (態度・志向)    ↑    (操作の言語化)
             架橋点

2008年に「XをXじゃなくす」を書いたとき、治さんは——おそらく無意識のうちに——ウォーホール的Pop Artの構想を支える操作を定式化していた。この原理が、夢(Pop Art)から操作への翻訳を可能にし、態度や志向の違いを超えた接続を示してくれる。


本章のまとめ

二つの言語化

本章では、司さんと治さんの言語化の過程を検討した。

司さんの「小さな転覆」は、30年以上の実践を経て2025年に結晶化した言葉にあたる。実践が言語化に先行した。1980年代から図鑑切り抜きを続け、批評家による「逆転、反転、転覆、ずらし、宙づり」という認識を経て、ようやく「小さな転覆」という表現に収束した。「小さな」という形容詞は、操作の特質——穏やかでありながら確実に何かを変える——を示している。

治さんの「XをXじゃなくす」は、2008年に一度だけ書かれた定式化にあたる(変数構造の示唆については付録C参照)。数学の定理が一度証明されれば繰り返す必要がないように、この定式化は一度で完結している。

言葉 「小さな転覆」 「XをXじゃなくす」
言語化の時期 2025年 2008年
実践との関係 実践が30年以上先行 言語化と実証がほぼ同時
反復/一回 言葉は反復、構造は暗黙 一度だけ

夢と原理の時間構造

治さんにおいて、Pop Art構想(夢の層)と「XをXじゃなくす」(原理の層)は2008年に同時に結晶化した。夢が先にあり、原理が後から追いついたのではない。両者は同時に現れた。

しかし、原理の実施には時間を要した。「錯視を錯視じゃなくす」——科学的問いを切り離し、効果だけを芸術として提示する——この操作が実現したのは、2025年の「Morning Monsters / W Eiji」展においてだった。構想から実施まで17年。夢と原理は同時に現れたが、それが芸術として形をとるまでには、長い時間を要した。

言語化と実践の対照

治さんは操作を言語化したが、長らく構想段階にあった。司さんは操作を実践し続けたが、言語化はしなかった。この対照関係は結論で詳しく検討する。

ウォーホールとの三角形

ウォーホール、治さん、司さんの三者は、すべて「分類体系から対象を切り離して解放する」という共通の構造として記述できる。ウォーホールは消費社会から商品を切り離し、治さんは科学から錯視を切り離し、司さんは図鑑から蝶を切り離す。操作のレベルでは、三者は同一の構造を共有している。

しかし、態度と志向のレベルでは分岐が生じる。ウォーホールと治さんはカテゴリを与えて対象を固定し「大衆性」を志向するが、司さんはカテゴリを与えず不確定性を維持し「思索性」を志向する。ウォーホールの態度が大胆で宣言的であるのに対し、司さんの態度は静かで持続的な性質を帯びている。

この三角形は、操作・態度・志向という三つの次元が独立していることを示している。共通の構造を持ちながら、態度や志向は異なりうる。